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福シネマ文化倶楽部#8 『ズートピア』にみる都市社会における共生の条件 篠原拓也 *ネタバレあり

『ズートピア』にみる都市社会における共生の条件
(ネタバレあり)
東日本国際大学
篠原拓也

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品『ズートピア』(2016 年)は、大きさも生態も信条も階層も異なる動物たちが自由に暮らす楽園的な都市ズートピアにおいて、初のウサギの警官となったジュディが、偏見や差別意識による分断と排除の危機に向き合う当事者となって奮闘する物語だ。ズートピアは Zoo (動物園)と Utopia (理想郷)を組み合わせた言葉であり、多様な動物たちが生活する都市社会である。

『ズートピア』は、さまざまな人種、信条、階層などの坩堝にあって、偏見、差別、分断を乗り越えて共生をめざすアメリカ都市社会の希望と課題を描いている。まずはこの物語のあらすじを示し、都市社会における共生の条件について考えたい。

1 あらすじ

さまざまな動物たちが暮らすズートピアはハイテクな文明社会であり、大きさも生態も違う動物たち(他者)が自由に暮らす楽園のような都市とされる場所である。主人公のジュディ(ウサギの女性)はニンジンを作るウサギだらけの農村で生まれた。物語はこの農村の子どもたちの演劇のシーンから始まる。かつて肉食動物たちは生き延びるために草食動物たちを捕まえて食べていた。現代は自由で平等な社会となり、動物たちは生まれに縛られず「何にでもなれる」ようになった。草食動物は肉食動物に食べられずに済むようになり、消防士にもなれる。肉食動物は獲物を追いかけないでも生きられるようになり、保険会社で働くこともできる。そこで幼少のジュディは警察官になると宣言するが、キツネのギデオンは、ウサギは警察官になんてなれないとケチをつける。演劇のあと、草食動物をいじめるギデオンに立ち向かうジュディだが、ギデオンに引っ掻かれて侮辱される。

ジュディは警察官になることを諦めないが、ジュディの父母は危険な仕事だといって反対する。父母は肉食動物がいまだに凶暴であるという考えをもっており、また自分たちがいま幸せなのは「夢をあきらめたから」だという。そしてほかのウサギの兄弟たちと同じくニンジンを作って世界をよくするべきだという。それでもジュディは警察官になるためにズートピアに向かう。

ジュディは警察学校でトップの成績だったものの、警察という典型的(ゆえに象徴的)な男性社会においては、ミニパトで駐車違反の取り締まりを任される。これは「女性でも比較的安全な」仕事の典型なのだろう。ちなみにジュディの父母はこの人事に対して、安全な仕事でよかったと喜んでいる。

駐車違反の取り締まり中にキツネで詐欺師のニックと出会ったジュディは、ニックとともにある失踪事件を追うことになる。ジュディとニックは失踪した肉食動物たちを発見したが、彼らは「夜の遠吠え」という薬品により凶暴化した状態だった。

失踪事件を解決したジュディだが、記者会見の場で、肉食動物は進化してもなお生物学的要因から草食動物を襲う危険性をもっていると、差別的ともとれる答え方をする。ジュディの発言に失望したキツネのニックはジュディのもとを去る。ニックを追うジュディに対して記者が「あのキツネに脅されたのですか?」と問い、ジュディが「彼は友人です」と答えると、「友人すら(肉食動物は)信用できないと?」と曲解する。この報道により、ズートピアは草食動物と肉食動物の分断が起こり、肉食動物を排除する機運も高まり、混乱に陥っていく。

肉食動物と草食動物を分断した立場になったジュディは、偏見や差別意識に抵抗して生きてきたはずの自分のなかにも偏見や差別意識があったことを自覚し、警察を依願退職して生まれ故郷の農村に戻る。

ズートピアの人口(あるいは有権者)は 10%が肉食動物で 90%が草食動物である。ズートピアの市⻑はライオンのライオンハートであり、彼は 10%のマイノリティだ。ライオンハートは副市⻑であるヒツジのベルウェザーがもつ 90%の草食動物=マイノリティの票を取り込んで選挙に勝ったが、ベルウェザーを多忙な労働条件においていた。ベルウェザーは、少数派のくせに自分を虐げる肉食動物たちに恨みを募らせており、ヒツジのダグたちと「夜の遠吠え」を使い、肉食動物を狂暴化させ、ズートピアの住⺠たちが肉食動物に恐怖や嫌悪を抱くようにしていたのだった。

何とか和解したジュディとニックは、この事態の真相を掴み、ベルウェザーを逮捕に追い込んだ。これによりズートピアは何とか再び調和を取り戻していく。ニックは警察学校を卒業し、キツネで初めての警察官となった。

2 都市社会における共生の条件
偏見や差別への自覚
この作品は、視聴者が自らの偏見や誤解に気づけるような描写が多く、そのような記号や演出を意図的に、かなり徹底的に散りばめている。「お前はこう思っただろ、でも実はこうなんだよ」という仕掛けが、やや押しつけがましく、ソフトながら説教臭く描かれている。

ジュディとニックのように「夜の遠吠え」の正体は肉食動物のオオカミなのか、と思ってしまうのもそうだし、巨大なシロクマを従える Mr.ビッグと呼ばれるマフィアのボスは、あまりにも小さいトガリネズミだった。警察署⻑であるスイギュウのボゴは筋肉モリモリで肉食動物たちに指示しているが、スイギュウは草食動物だ。ちなみにこのボゴ署⻑は「お前には肉食動物がみんな凶暴にみえるようだな」とジュディの偏見を諫めたあとで「キツネを信じろと?」といってのける。

トップスターのガゼルの外観は、セクシーな女性のようだが立派な角をもっており、いかにも「性を断定してはいけない」というメッセージを発しているようである。また、序盤でジュディをいじめたキツネのギデオンは、強者にみえるが、ウサギが圧倒的多数の村でマイノリティだった。彼は大人になってから「あの頃は自分に自信がなかったんだ」と述べてジュディに謝罪している。彼が執拗に生物学的差異を強調していたのは、自分がマイノリティであるという自覚があり、自信のなさから、変わらない安定した属性にすがって何とか優位に立とうとしていたのかもしれない。

さて、物語で問われた主な論点は、人口の 10%程度のマイノリティで狂暴だった歴史をもつとされる肉食動物への偏見、差別、排除をどう考えるかである。ジュディがそうしてしまったように、〈生物学〉ほど差別をもたらすのに便利な知識はない。科学に支えられれば偏見はもはや偏見ではなく、正しい知識に支えられた理性的な認識になるし、差別は合理的な取扱いになるし、排除は病人が病院にいくように当然のことになる。もちろんここでいうカッコ付きの〈生物学〉が現代の生物学において正しいかどうかは全く別である。しかしその〈生物学〉的知識が生物学的に正しくないという主張をするときでさえ、それもまた、偏見や差別という社会現象を語るにあたって、〈生物学〉的知識の正しさを争うという土俵からは降りていない。

〈生物学〉と向き合うこと

ズートピアは「何にでもなれる街」である。都市部の一角にはヌーディストのコミュニティもある。平等に何にでもなれるというズートピアの政策の中核をなす価値は自由と平等である。自由な生き方が平等にできるのである。

しかし実際には変えられないものはある。例えば作品に登場するナマケモノの役人はどうにも速く動けないので、その仕事ぶりはお役所仕事どころではなく、周囲をイライラさせる。このような「変えられない」という部分、もっというと生物学的に変えられない部分について、自由で平等な社会のための一つの条件である「寛容」の必要性とその難しさを考えさせられる。

以上は些細な例に過ぎないが、『ズートピア』のテーマの一つは、科学の衣をまとった生物学的な差異が差別の根拠になるという問題にどう向き合うかにある。『ズートピア』の問題提起が一筋縄ではいかないのは、誤った科学的知識(生物学的に肉食動物は本質的に凶暴である)に対して真の科学的知識(それは本質ではなく「夜の遠吠え」の特殊な作用で凶暴化する)を見つければ社会問題が解決できる、という物語にみせかけて、そうではないことだ。

生物学的に本来凶暴であり、何かの条件(夜の遠吠え)によって肉食動物に限った潜在的性質が顕在化するという法則自体は否定されていない。「夜の遠吠え」のような物が、製作され、流通し、悪意ある者の手に渡り、使用され、それを容易に制御できないというのは、社会環境の問題であるといえる。そうであるから、生物学的問題ではなく社会学的問題であるという Not A But B 式の理解で、生物学的な説明を否定したことになるのかもしれない。しかしながら本能という本質的な説明は退けられても、生物学的な説明自体が退けられたわけではない。本能などなかったとしても、潜在的な性質が顕在化するという法則自体は否定されておらず、今後も社会の如何では肉食動物が狂暴化する法則は発動する。

生物学的問題と社会学的問題は Not A But also B で理解できる問題だ。そうでなければズートピアは肉食動物に合理的に配慮することもできなくなる。マスメディアとの向き合い方ズートピアでは、偏見や分断を爆発的に呼び覚ます装置としてマスメディアが一役買った。マスメディアは実際のところ強大な権力装置であるから、情報の加工、誇張、偏向に対する批判的な構えはそれなりに重要である。

マスメディアは、ジュディが記者会見で「肉食動物は危険だ」と語ってから 1 週間で肉食動物が狂暴になる事件が 27 件発生していると報道した。しかしジュディは直接「肉食動物は危険だ」と語ってはいない。報道によって、語ったことになったのだ。また、「肉食動物は危険だ」という単純なメッセージは、肉食動物の事件が草食動物に比べてどうなのか、仮に肉食動物の凶悪事件が多いとしてもそれらの事件が生物学的な要因によるものなのか、マイノリティとして歴史的に形成された経済的社会的背景によるものなのかといった点が一切考慮されずに、単に恐怖を煽っているだけである。ジュディは結局のところ、自分の足で情報を得て事件を解決に向かわせたが、その努力なしには、この社会はもはやより確かな情報には到達できないのだった。

確かに、最終的には、その情報はマスメディアを通して伝わり、事態の解決に向かうわけだが、市⺠がマスメディアという権力と付き合っていく距離感や関係性についてズートピアは厳しく注意を促すものになっている。
ちなみに、ズートピアの分断を伝えるニュースキャスターのタヌキは、茶釜を背負い頭には葉っぱを乗せている。日本人的なタヌキ像がズートピアで市⺠権を得ているのだ。彼は真面目にニュースを伝える誠実なキャラクターだが、「タヌキおやじ」という言葉があるように、マスコミの表裏を表しているのかもしれない。

監視カメラとボイスレコーダーズートピアが目指す人工的ユートピアへの信仰をもたず、別の信仰――本能をもちだすかはともかく、〈生物学〉による分断は正しいという信仰――をもつ者はいるだろう。その信仰には強さがある。なぜならこのとき〈生物学〉はただ取って付けたような理由であって、本音では分断への意思のほうが先行しているからである。分断を望む動機は特殊な憎悪というより、誰もが潜在的に抱えている不信と不安でもある。
リベラルな都市社会の住⺠というのは社会のメンバーを根本的に信用できない。これは多様なメンバーが自由に共生する以上、全員を信用することはできないという、都市社会の原理的問題ではないか。信用していないからこそ、ズートピアが成り立つには、マスメディアが自力では到達できない情報にジュディたちが到達したときのように、「監視カメラ」と「ボイスレコーダー」が不可欠なのだ。結局のところ、ジュディは警察であって、警察権力として、直接的な暴力の発動はともかく、監視機能の発動が都市社会において非常に重要であるというのが『ズートピア』の大枠であり、むしろそれに尽きるのではないか。

私たちはメンバーを相互監視する技術に支えられながらメンバーと連帯する必要があり、そのことの難しさに直面している。

権利/義務をめぐる精緻な技術

アイスクリーム屋のプレートには「サービスをお断りする場合がございます」と書かれている。「○○はお断り」とはっきりと差別しているのではなく、より巧く差別的な取扱いを実践しようとする一つの技術である。

また、ニックの行っていたアイスの転売はそれなりに手間のかかる加工を経ており、その過程を見る限りでは労働と呼べそうなものであって、営業許可もとっている。しかし脱税により違法状態である。様々な立場や価値観の人が暮らす都市社会では、複雑な事情に対応するために、法治国家として厳格な権利/義務の規範が洗練される必要がある。ニックの一連の行為に対しても、ジュディがそうしたように、転売の違法性は問えないが脱税の線で問う、というような抽象的で技術的な統治が必要となる。

逆にジュディが業務中にニックに同情してアイス代を払うことは、規範の外部の行為であり、田舎的感覚によるものであって、それはまったく愚かなことである。

3 ハッピーエンドの陰

ボゴ署⻑は『アナと雪の女王』における「ありのままに」という言葉を意図的に使ってジュディに釘を刺している。人生はミュージカル映画とは違う、歌えば夢は叶うなんてものではない。女性であるとか、ウサギであるといった自分の変えがたい属性を「ありのままに」受け入れろ、というのである。

このようなリアリストの衣をまとったマジョリティからの抑圧のある社会で、なお主体的に生きる姿がみられることは、『ズートピア』が差別と向き合う映画として絶賛される理由であろう。差別と向き合っているのは登場キャラクターや視聴者だけではなく、まずディズニーがそうなのだろう。

ディズニー映画には偏狭な東洋人イメージに対するオリエンタリズム批判、プリンセスものにみられるジェンダー批判などがつきものだった。『マレフィセント』や『モアナと伝説の海』もそうだが、近年のディズニー作品は⻄洋人男性の贖罪のごとく社会的、政治的側面を意識させるものが多い。個人をありのままに受け入れることはともかく、この都市社会の現実を「ありのままに」受け入れるというとき、受け入れるべきありのままの現実とは、野蛮さや無力のみでなく、実際に今日までに積み上げ、実現してきた文明的な変化でもある。私たちは自由で平等に、何にでもなれる社会を目指してここまで創ってきた歴史を、ありのままに評価すべきである。

しかしながら、『ズートピア』はそのようなメッセージをもつハッピーエンドなのだろうが、エンドのそのときも、その先も、どこか陰っている。一筋縄ではいかないことが多すぎるのだ。

筆者は大学院生のときに「人を差別したければ生物学と統計学を学べ」という諺(?)を知った。もちろんこれも生物学や統計学への偏見になりかねないが、とにかく差別は科学の衣をまといたがるものだ。生物学的差異は、認めれば安易で短絡的に差別の根拠にされるし、逆に認めなければ嘘になる上、それはそれで当人のアイデンティティの傷となるかもしれない。統計にも注意が必要である。私たちはよく「数字は嘘をつかない」というが、私たちは数字で嘘をつく。1 週間で肉食動物が狂暴になる事件が 27 件発生しているからといって、だから何なのか。その先か、あるいはその前にある思惑が重要なのだ。しかし、だからといって、「私らは進化したが中身は今も獣のままだ」という Mr.ビッグの発言のような、一見すると本質を突いたような、何となく格言めいた言葉の真実性にも注意が必要であるから難しい。

あるいは、「真実」というものへの態度が問われているのかもしれない。結局、ズートピアの危機をめぐる物語には「真実」があり、わかりやすい悪としての犯人(すなわちベルウェザー)がいて、それが捕まることでハッピーエンドになる。しかしわかりやすい悪を特定して、これを裁き、真実の物語とすることで分断が解消され統合に向かうという筋書き自体、次の分断を暗示しているのではないか。

このほかにも、読み方が悪いかもしれないが、気になるところはある。

街が草食動物と肉食動物で二分化されたとき、トップスターのガゼルはデモを実施し、
分断が進むことに反対した。そして事態が収まったあとのコンサートは、草食動物のガゼ
ルが歌い、その周りを肉食動物の筋肉質なトラたちがダンサーとして華を添えており、二
分化した街が再統合された象徴となっている。トラたちも上裸ながら女性的なダンスをす
ることで、自由で平等な社会が表現されている。しかしながら、ここにさえ、性のメッセ
ージの発信者に暗に求められているルッキズムが影を落としている、というのは言い過ぎ
だろうか。

また、視聴者が自らの偏見や誤解に気づけるような描写を徹底的に散りばめ、押しつけがましく、ソフトながら説教臭く描かれることも気になる。ガゼルの外観はいかにも「性を断定してはいけない」というメッセージを発しているようであり、先進的で、魅力的に映るのかもしれないが、その性についての暴力はいつだって認識する側、語る側にあるという構造がつくられている。例えば、うかつに「トランスジェンダーなのか?」と疑問や関心をもとうものなら、それ自体が決めつけ、偏見、認識や言語の暴力であると糾弾されかねない。確かに認識や言語がそれ自体に暴力性をもっているというのは、ポストモダン思想に味をしめた人文学者や社会学者が偏見や差別を斬るときのお得意の論理である。しかし実際のところ、それはそれで、ややもすると対話をする気さえ起こさせない、一つの権力構造ではないだろうか。

おわりに

ジュディに対し両親は、ニンジンを作るという目先の仕事をすれば世界がよくなるという田舎的な市⺠社会観を示していた。無論、目の前の仕事でできることに限界はあるし、それは都市社会でも同じである。ジュディの業務も、日々せっせと目の前の駐禁をとる作業であった。必ずしも社会が変えられるとか、大きな物語に参与できるような充実感が湧くわけではない。

『ズートピア』は、そのような閉塞感のなかで、はじめの頃のニックのように冷笑的にならず、理念を信じて生きていくことの希望と大変さを描いている。奇しくも同じ 2016 年、『ズートピア』の公開のあとドナルド・トランプが大統領選挙に勝利した。それから 5 年たっても、『ズートピア』は現在の話である。都市社会は無限の自己修正を続ける未完の空間であり、それゆえにあらゆる社会問題も潜在的には未完、未解決である。

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