「福シネマ文化倶楽部」番外編
「懐かしの映画館」~えんま市と柏盛座(はくせいざ)~
新潟福祉文化を考える会 関矢 秀幸
(日本福祉文化学会 前北陸ブロック理事)
今回の投稿は、直接的には個々の映画とは関係ないが、私の少年時代と映画館の想い出を語らせてください。私は、新潟県柏崎市の片田舎で生まれました。私の家から中心部に向かうには、路線バスで約 40 分程度。当時各家庭で車を所有している家は珍しく、私の家も高校生になるまで、車はなく、学校までの道のりは自転車で約 70 分。今から思うとよく通ったものである。その途中には、「えんま堂」があり、毎年 6 月には、恒例の「えんま市」が開催される。全国的に有名なお祭りで、露天 500 弱、最盛期には、市内外から三日間で二十万人近く集まったものである。そのお堂の隣に、私がお話しする「柏盛座」があった。
(手にした映画の割引券)
小学校時代、休み前になると必ず先生が「来週から夏休みだよ、交通事故に気を付けて、ちゃんと宿題と、研究やるんだよ」「これから柏盛座の割引券配るから、見に行く人はおうちの人といくんだよ!」と必ずゴジラ映画の割引券をもらった記憶がある。当時映画の入場料は高く、それこそ、バスしかなく、めったに映画を見に行ける同級生はいなかった。その中で、映画を見てきたやつは、しばらくクラスの中では人気者であった。そんな中で、私もようやく映画に連れて行ってもらうことができ、家族でみた映画が当時、正月封切の「ゴジラの息子」であった。大きなスクリーンに映し出されるゴシラとミニラ、音響もすごく、ビックリしたものである。同時上映は。加山雄三の「ゴーゴー若大将」と記憶していているが、小学生には興味がなかった(笑)。映画館を出て近くの食堂で家族 4 人で「かつ丼」を食べたがおいしかったなあ。
(えんま市の歴史)
えんま市は、江戸時代から約 200 年以上続く柏崎の年中行事であり、元々は、柏崎市東本町にある閻魔堂で行われていた「馬市」だったものが、文政年間(1818~1830)には露店が立ち並ぶ縁日の形態となったと伝えられている。祭礼が 6 月中旬に行われることが、全国の露店業者が集うのに好都合だったために、現在では約 500 軒もの露店がえんま堂のある本町通りを中心に約 2km にわたって立ち並び、また、新潟県内外から 3 日間で延べ 20 万人以上の人出を集めるようになった。村上大祭(村上市)、蒲原まつり(新潟市)と並んで、新潟三大高市(たかまち)の一つとされている。また、露店の数や伝統と格式があるということで、日本の高市番付の大関格に格付けられている。
(柏盛座周辺はこどものワンダーランド)
えんま市のメイン会場が、えんま堂であったことから、隣接する柏盛座の敷地で、射的、輪投げ、金魚すくい、おばけ屋敷あり、時にはサーカスあり、また、オートバイサーカスありで、柏盛座の名前は、おさな心にインプットされていた。私がまだ幼いころは、ジャイアント馬場全盛の日本プロレスの興行もあった。えんま堂の入口に正座して頭をたれる。傷痍軍人の軍歌とアコーディオンの音色は今でも耳に残っている。軍帽をかぶり、白装束を身にまとい、地面に手をつき頭を下げる者、アコーディオンを弾き歌う者、ハーモニカを吹く者、子ども心に怖かった記憶がある。今であれば、「お国のためにありがとうございました。」と声掛けしていたであろう。
(思春期純情映画館)
高校時代はまったく、女の子にモテず、振られっぱなしであった。モテない仲間と奮発して映画をみていると、どうも我々の 2~3 列前に、同じクラスのAがいるではないか、「あれっ隣は?」隣はクラスの B 子であった。それも、私たちが密かにあこがれていた子であった。切ない思いと、悔しい思いが交差する、心かきむしられる思春期の想い出であった。柏崎市内には「セントラル劇場」という、東映、日活系の映画館もあり、時折成人映画も上映していた。我々はポスターを見て興奮するありさま、ましてや、見に行く勇気などなく、柏盛座で上映されたイタリア映画「青い体験」を見に行くのがやっとであった。主人公は思春期の青年であり、母がなくなり、父の世話をする家政婦さんにあこがれるという設定で、我々も身近に感じたものである。自分を投影していたのかもしれない。ちょっとエッチな映画は、思春期の良い思い出となった。バカな私は、興奮して、ポスターと映画パンフを購入したことを覚えている。ちなみに余談ですが、私が彼女と初めて見た映画は、「スターウオーズ帝国の逆襲」であり、大学時代まで、まだまだ時間があった(笑)この話は、また後日。
(柏盛座閉館~当時の地元紙から~)
私自身も何かとお世話になった柏盛座も、時代の波には勝てず、1999 年 10 月末に閉館となった。当時の地元紙(柏崎日報)を再掲したい。県下で現存する最も古い映画館・柏盛座(市内東本町 2・内山憲司社長)が今月限りで閉館することが決まった。外国資本による複合型映画館が県内に進出する中、明治から平成まで 87 年にわたり、キネマの灯をともし続けた映画館が近く取り壊される。同館は明治 45 年 7 月、現在地で先代の故友太郎さんが劇場として開いた。前年のえんま市では小屋がけで活動写真を上映し、大正 6 年に県内 4 番目の活動写真常設館となった。サイレント全盛、弁士と楽師の活躍から、音声付きのトーキーへと時代は移り、市内でも多くの劇場、映画館ができては消えていった。戦前・戦中の苦難の検閲時代を経て、昭和 51 年、大正時代の面影を残す建物は全面改築でみゆき座を併設し、今日に至る。大正時代には同好会ができ、名画会が開かれた。昭和 40 年代には「東宝友の会柏崎支部」の会員が 400 人に達した時期もあった。高度成長期のテレビの普及、平成に入ってのレンタルビデオの普及など大衆娯楽の変化とともに、入場者の減少から県内でも長岡、新潟で老舗(しにせ)の閉館が続いた。近年では大手資本のもと、複数のスクリーンをもつ複合型映画館の進出で、県内の映画地図は塗り変えられようとしている。内山社長(83)は「戦後、長谷川一夫の『男の花道』のころが営業的には最盛期だったかな」と振り返り、「これまで一度もやめようと思ったことはない。しかし、私も年をとり、先の見通しもない。ファンには申し訳ないが、この辺で幕を下ろさせてほしい」。法人としての柏盛座は今後、巡回映画、地域の催しなどの仲介を行っていくという。平成 4 年の開館 80 周年にあたり、市内の映画ファンが鑑賞会シネ・フレンズ(吉井靖代表)を発足し、同館で上映会を続けた。吉井代表は「町から常設映画館が消える。埋めがたい寂しさがある。内山社長とご家族、映写技師に長い間ご苦労さまと言いたい」と話している。(1999/10/22)
(想い出の映画解説者)
私が映画にのめりこんだのは、大学生になってからである。それこそ、高田馬場、中野、早稲田、阿佐ヶ谷、吉祥寺によく通ったものである。名画座は 500 円もあれば、学生料金で入場できた。男はつらいよシリーズは面白かったなあ。また、テレビで放映される映画もよく見たものである。当時の映画解説者は、テレビ朝日は、日曜洋画劇場、淀川長治、日本テレビは水曜ロードショー、水野晴郎、フジテレビは、土曜ゴールデン洋画劇場、高島忠夫、テレビ東京は木村奈保子、そして TBS が月曜ロードショー、荻昌弘である。淀川長治の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という名台詞、水野春郎の「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」なども有名だったが、荻昌弘は決まり文句を使うやり方はとらなかった。立て板に水の語り口。中身のストーリーをばらすことはしない。ほんとに映画が好きなんだなあと感じさせる解説だ。彼は、月曜ロードショーの解説者を長年務め、その落ち着いた語り口から、淀川長治、水野晴郎と並んで名解説者として知られた。明晰で無駄のない解説で、品と知性に溢れた格調高いものであった。と記憶していてる。思わず複雑な気持ちになったのは、確かテレビ東京と記憶しているが、青い体験が放送されたことである。いろんな映画、柏盛座で見た映画が、テレビで放映される。何か不思議な気持ちにさせられたものである。
(夢のあとさき)
現在の柏盛座は取り壊され、広い敷地が駐車場となっている。えんま堂も、平成 19 年に発生した、中越沖地震で大きな被害を被ったが、立派に再建されている。時折えんま堂に行く機会もあり、柏盛座の敷地に立って眼を閉じると、職人の書いた大きな絵看板とペンキの匂いが私の鼻をくすぐる。入場券を握りしめた、子供たちとそれを見つめる家族連れ、売店のポップコーンの匂い、開演を知らせるベルの音、最後に一言「いや~映画って本当にいいもんですね」何故か水野晴郎、荻昌弘、淀川長治さんの姿を見た気がした。