福シネマ文化倶楽部#12 「峠 最後のサムライ」を観て 出羽秀輝 *ネタバレあり

「峠 最後のサムライ」を観て
〜北越戦争から見えてくるもの〜

新潟福祉文化を考える会
(社会福祉士 介護福祉士 准看護師) 出羽 秀輝

2022 年 6 月 21 日(火)いつものユナイテッドシネマ新潟で「峠 最後のサムライ」を観
てきました。

本来ならこの映画はもっと早く上映されるはずだったのですが、コロナの影響で延期に延期を重ねて、現在上映となりました。

今回は私の好きな司馬遼太郎先生の作品と言う事と、尊敬する武士である河井継之助の映画である事でとても楽しみにしていました。

映画の出だしが、1867 年の大政奉還から始まるので、継之助は諸国の遊学が終わっています。ですので、内容としては「峠」全編というより、北越戦争を中心に描かれていると言っていいと思います。

継之助は東軍である幕府に武士としての恩義を感じてはいるが、東軍につけば負けるのはわかっている。しかし強大な⻄軍につけば大義名分もなく汚名が残る。そのため、どちらもつかないと言う武装中立の立場を取ることを考えました。これはエドワルド・スネルや他の外国武器商人などからスイスの事を聞いていたと思われます。

そのためには相手に威圧をかけるためにも、もし有事になっても持ちこたえられるためにも軍備を強化する必要がありました。(今の日本のようですね)継之助は 3 年で⻑岡藩の借金を返済し、1868 年には 11 万両の余剰金を作りました。その資本金と牧野家の財宝を売れるだけ売って当時日本に3丁しかなかったガトリング砲のうち2丁を購入することができました。

その準備をした上で、⻄軍が迫ってきたところ、小千谷談判となるのですが、⻄軍の軍監だった岩村精一郎は 23 歳。継之助の構想など理解できるわけもなく、継之助はこの談判がうまくいけば、会津を説得してみせるとまで言ったのですが、それにも耳を貸さずに「時間稼ぎであろう」とだけ言って戦う事一択だけで時間も 30 分だけでした。

この軍監が黑田清隆か山縣有朋であれば、歴史は変わっていたかもしれないと言われるほどの歴史の分岐点でしたが、歴史にタラレバはないのでしかたないです。

ここで談判が決裂したため、武装中立の夢も破れることになり、継之助は奥羽越列藩同盟に参加することになります。それを知った会津藩の秋月悌次郎は死ぬほど喜んだそうです。

映画ではこのまま戦へと進みますが、できれば奥羽越列藩同盟で、⻑岡藩近郊の同盟藩を地図で説明すると観客にも戦略的にどうなるのかわかりやすかったのではないかと思いました。

なぜなら新潟県⺠なら村松藩や新発田藩と言ってもだいたいどのあたりにある藩なのかわかると思いますが、全国で見ると恐らくわからないと思うからです。継之助はこの戦に勝てるとは思っていなかったと思います。
それは作中の中でもその発言がありました。

「この戦は勝てない。しかし、負けることもない」

一見矛盾していますが、ある意味正しいです。孫子の兵法では、戦の最善策は「戦わずして勝つ」ことです。それが小千谷談判にて決裂し、このまま恭順したら⻄軍の先鋒として⻑岡藩が会津と戦わなければならないので、⻑岡藩として戦わずにはいられなくなった。

そして孫子の兵法では「戦は勝つためにやるのではなく、負けないようにやる」と言うように負けないように戦うためにはどうするかを模索して、負けなければいずれ交渉する余地も見えてくるのではないかという期待を持って戦に臨んだのだと思いました。

一度は⻑岡城を奪われましたが、八丁沖という普通では考えられないルートから侵入し⻑岡城を奪還しました。これも孫子の「兵は詭道なり」を実践したもので、戦術としては素晴らしい作戦でした。戊辰戦争で城を奪還したのはこの⻑岡城だけなので、すごいことだと思います。

このことで、継之助は政治家としても戦略家としても優れていたことが証明されています。

しかし兵力差は埋められず4日間で落城しました。その時に左足に銃弾があたり負傷。そのまま⻑岡藩はガタガタと崩れ、継之助は三条から会津に抜ける八十里峠を越す事になります。

映画では言いませんでしたが、ここで詠んだ句が

「八十里 腰抜け武士の 越す峠」

腰抜けが越抜けにかかっていて面白い句です。ぜひ役所広司に言っていただきたかった句です。

只見まで来て継之助は破傷風が悪化し、終焉を迎えることになります。映像化はされませんでしたが、そこに家臣の外山脩造がいました。(登場はしています)

継之助は外山脩造に「これからは武士ではなく商人の時代だ、商人になれ」と言って福澤諭吉宛てに一筆書いています。それがきっかけで外山は慶應義塾に入学し、大蔵省を経て阪神鉄道を作りました。

外山脩造の幼名が寅太というので、それで阪神タイガーズになったという説があります。最後に、従者である松蔵に自分の棺を作らせ、火を炊けと命令しました。継之助は自分が焼かれる炎を見て何を思ったのか、なんて思っていました。

司馬遼太郎によれば、⻄に生まれていればお札の肖像画になっていたかもしれない人物。そして私としては陽明学者として大成した人物だと思います。継之助の墓はその後⻑岡に建てられましたが、何度も傷つけられたり倒されて壊されたりしていました。

⻑岡の人からすれば、街を戦火に巻き込んだ張本人との気持ちもあるでしょう。そのため全員に評価される人物ではありませんが、私は尊敬します。

峠を製作するにあたり、2時間では短いなと思っていたのですが、やはり部分だけでした。残念でしたが、世間に峠という小説と河井継之助という人物をわかっていただく良い機会になり良かったと思いました。

追記
峠というタイトルにするならば、本当は諸国遊学した 1859 年からはじまると継之助の人柄がよくわかったのではないかと思います。その後 1865 年の藩政改革では実力を発揮し赤字の⻑岡藩を富国強兵の藩へと発展させていくわけですが、その改革の中で遊郭の禁止をした時に作られた歌が

「かわい(河井)と今朝まで思い、今は愛想もつぎのすけ」

であり、藩政改革で街は潤い河井継之助様様だった気持ちが、何かを禁止されることで⺠衆の気持ちというものはすぐに手の平を返すという、⺠衆の心の移ろいをコミカルに表現した真実だと思います。⺠衆はそういうものなのでそんなことに一喜一憂せず、自分を見失わずに信念を貫くことが気概なのだと教えてくれたように思います。

私も人の目に臆することなく、気概を持って、陽明学の真髄である「心即理」を旨に生きていきたいと思います。

 

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