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福シネマ文化倶楽部#4 『思い出のマーニー』から考える子どもの回復と成長 篠原拓也 *ネタバレあり

『思い出のマーニー』から考える子どもの回復と成⻑
(ネタバレあり)
東日本国際大学
篠原拓也
スタジオジブリの『思い出のマーニー』(2014 年、米林宏昌監督)は、大学で児童家庭福祉を教えている私にとって強い印象に残っている作品の一つである。

時間の制約もあって授業で流すことはできないが、原作が児童文学作品であり、家族、人間、特に子どもの傷と成⻑に関する重厚なテーマを扱っているので、学生にも薦めている。

『思い出のマーニー』は、幼少期に両親を亡くし、心を閉ざし続けてきた主人公のアンナが、謎の少女マーニーとの関係を通じて、自身の過去を受け容れ、克服することで成⻑するストーリーである。

東京で(おそらく養子縁組里親で)養育されている中学生のアンナは、周囲の人々となじめず、他者に心を閉ざした生活を送っていた。養親はひどく心配性であった。あるときアンナは養親が市から手当を受給していると知り、それを黙っているのはお金のために自分を引き取ったからだと思い込み、養親にも心を閉ざしていた。

アンナは喘息を患い、療養のために北海道の海辺の村で過ごすことになる。つまりアンナは実親を失い、里親ないし養親の家に移され、さらに別の家に移されたことになる。北海道でアンナの養育を担ったおじさんとおばさんは器の大きい好人物であった。
かしアンナは村の同世代のコミュニティには入れず、アンナの「目が⻘い」ことに興味をもった女子との会話に耐え切れず「太っちょブタ」と言って怒らせてしまう。

その後、湿地屋敷とよばれる古い無人の屋敷を見つけ、そこで不思議な少女マーニーと出会う。アンナはたびたび夢うつつの状態に陥り、マーニーも現れては消える。それでも二人は、少しずつゆっくりお互いを知るために、1日に3つずつ質問をするという仕方で友情を深めていく。

マーニーがトラウマをもつという丘の上のサイロを二人で訪れると、マーニーは怯えて様子がおかしくなり、アンナと一緒にいながら、その場にいない幼馴染の和彦に助けを求めるようになる。アンナは夢うつつの状態に陥り、その間にマーニーはサイロを去ってしまったようである。高熱を出して倒れている所を救出されたアンナだが、初めてできた親友のマーニーに裏切られた怒りと悲しみに苦しむ。

アンナが湿地屋敷へ行くと、窓の内側にいるマーニーから突然別れを告げられる。ーニーは、明日、どこかに連れていかれるという。マーニーはアンナを置き去りにするつもりはなかったと謝り、叫ぶと、アンナはマーニーを許し、叫び返す。マーニーと別れたあとのアンナは、少しずつ人に心を開くようになり、友人もできるようになる。養親が村を訪れ、アンナに市から受給している手当のことをうち明ける。養親は手当を受給していることでアンナが傷つくかもしれないと恐れ、アンナに黙っていたのだった。アンナはそれを許し、家族への不信や恨みを克服する。

後日、アンナと友人が近所の老婦人にマーニーが書いたと思われる日記を見せると、彼女はマーニーの薄幸な一生を語り始める。マーニーは幼少期に両親から放置され、使用人から虐待まがいの行為を受けていた。和彦と結婚して娘のエミリ(アンナの実母)が産まれたが、和彦は亡くなり、マーニーは心身を病んで娘を寄宿学校に預ける。後にエミリを引き取るが、エミリはマーニーに懐かずに反抗し、家を飛び出した。エミリはその後に知らぬ男と結婚し、子ども(アンナ)もできたが、エミリも夫も交通事故で亡くなってしまう。マーニーも孫のアンナを引き取ってわずかな交流の時期を経たあと、亡くなったのだった。

こうしてアンナは、マーニーが自分の想像上の友達ではなく、自分の祖母にあたる存在だとわかった。愛着形成の困難を抱えるアンナは、祖母であるマーニーの過去を体験し、親友として対話しながら自分の過去を受容し、実の親族や養親からの愛情を再認識することで、この世界への不信や恨みを克服し、成⻑していくのであった。

被害者的な自己像をもちながら、そんな不機嫌な自分が嫌いで仕方ないという状態で、他者に心を閉ざし、大人と愛着形成ができない。そんなアンナは、いくつかの場面で気に入らない他人を「ヤギ」「トド」「ブタ」と動物に例える癖がある。これは他者を人間社会の「輪の外」に置くような言い方でありながら、孤立しているのは自分であるから、逆説的に、いつか自分自身を人間社会の「輪の外」に置きかねない状況を暗示している。

アンナの「喘息」は北海道にいくきっかけにはなっただろうが、作品中ではほとんどフェイクのようなもので、ソーシャルワーカーのいう〈バイオ−サイコ−ソーシャル〉でいえば、心理社会的問題が身体的問題に接続し影響しているだけの現象として扱える。

このアンナの困難は実母のエミリからの世代間連鎖でもある。ということは、その連鎖の先には祖母のマーニーがいることになる。マーニー自身、両親から愛情を十分に受けられず、娘のエミリに対してひとり親家庭の母親としての接し方に難しさを感じていた。大事な時期に両親の愛を十分に受けられなかったエミリもまた娘のアンナに何もしてやれないまま死亡し、アンナもまた両親の愛を信じられず孤独と不信に陥っている。

このように三世代に渡って家族問題が連鎖し再現されているのだ。アンナは生前のマーニーとの出会いによって呪縛のような世代間連鎖を断ち切ったことになるが、視点を変えれば、死後のマーニーが自らの孫にかかったこの連鎖を断ち切りに来たことになる。それはどのようになされたのだろうか。以下、3〜7に整理して考える。

3 男性が救済しない世界

アンナが成⻑した世界は、男性のいない世界であり、さらにいうと、大人が後景に退いた世界である。

その象徴は、まず映画冒頭の男性教師の手である。この男性教師は、座って絵を描いているアンナに優しく話しかけ、手を伸ばし、アンナの絵をほめようというところで、タイミング悪く別の女子に呼びかけられてそちらに行ってしまう。この男性教師は普通の、いい教師である。教師が去って、アンナは暗い顔に戻る。この男性教師も、顔が映らないまま表れて、去っていく。男性のいない世界の表現である。

こうしてこの作品は、アンナが大人の男性に救済されない世界に始まる。そして、そのままハッピーエンドで終わる。重要な人物はすべて女性である。そのような世界でも、というよりその世界だからこそ、アンナは十分に成⻑し、回復したのだ。

その世界を象徴するもう一人の男性が与一である。与一は寡黙で、アンナをマーニーのところに船でただ渡すだけである。マーニーの夫となる和彦も同様で、和彦はアンナにとって知りえず、マーニーを奪う存在としての文脈はあっても、触れえない存在である。

愛着形成や世界への信頼、そしてアイデンティティに関係するアンナの困難を、男性への依存ではなく女性同士の友情や繋がりの確認によってクリアすることが、この作品に強いテーマ性を与えている。このことは、親に反発し、バイクで男性の後ろに乗って去っていき死亡する末路となった母エミリの人生を、アンナが再現しなかった、あるいは祖母のマーニーが再現させなかったことにも通じている。

4 大人が救済しない世界

北海道でアンナの養育を担ったおじさんは快活な男性であるが、おばさんはそれと同等かそれ以上に快活である。二人とも何かを解決してくれるわけではないが、過剰に心配せず、子どもをコントロールせず、少しばかりの注意はするが基本的には許し、そして何より夫婦仲がいい姿を見せる。しかしそれだけである。それだけに留めているのだ。彼らは明らかに望ましい大人像、親像として描かれている。

東京の養親と北海道の養親、つまり大人同士が信頼しあい、支え合っている重要な描写もあったが、その姿をアンナに見せていない。それが「親の心子知らず」に繋がるのかもしれないが、子育て不安を意識したような関わりはしないのだ。

そして大事なのは、アンナがそうであったように、成⻑や変化の境目や過程は必ずしも大人からは見えないということである。北海道のおばさんはそのことをわかっているようで、成⻑し回復したアンナについて尋ねる養親に対して「私たちはなーんにもしてないよ」と答えている。子どもは自分で成⻑するのである。アンナとマーニーのやりとりが「誰にも言わないでね」という言葉に象徴される秘密の関係で行われていたように、大人に知られることは、管理され、自分で成⻑する力を剥奪されることでもある。

5 ゆっくりと会話を通して信頼を築き、過去を探索する

アンナの困難は、まず、養親と養子(ないし里親と里子)という家族関係、あるいは医者と患者、カウンセラーとクライエントという専門職関係の内部に留まっていては解決しがたいものである。このことが序盤で示唆されていることが重要である。

これは「田舎の自然の空気でも吸ってみれば」という安直な環境の転換でもいけないということでもある。しかも北海道でアンナの養育を担ったおじさんとおばさんに関して、心配性な東京の養親とは真逆のかなり器の大きい好人物でありながら、やはり彼らだけでも不十分だったということになる。そう考えると、愛着形成や自己肯定感の回復、その先の成⻑というのは、ずいぶんとハードルが高いものであるように思える。

地道な作業だが、アンナは〈祖母=友〉をめぐる不可解な経験のなかで、自己の過去の探索に繋がるような会話中心のコミュニケーションを通して、困難を克服したのだろう。そうであるから、アンナの経験した記憶の追体験のような精神的交流は幼少期に集中していたのだ。そしてそれは、アンナが、お互いを少しずつゆっくり知るために1日に3つだけ質問をするという約束でマーニーと交流したように、相応の時間をかけるべきものであった。

マーニーがいきなり老婆の姿で出てこない、出てくることができないのは、マーニーにではなく、アンナの側の事情として、時間と段階が必要であるためであろう。

6 血縁を知ることで自身を知る

そして、残酷なことかもしれないが、そのような過去の探索は、血縁を抜きには成立しえなかった。その象徴が、マーニーとの生物学的な繋がりを表す記号である「⻘い目」であった。序盤でアンナは村の女子に「⻘い目」に興味をもたれる場面で耐え切れず暴言を吐く。このことは、単に他者に心を閉ざしていることだけでなく、欠損したアンナの血縁関係に対するアンナの反応でもある。これが終盤では、アンナは「⻘い目」をもつ祖母(マーニー)との繋がりを確認しながら、欠損した血縁関係を埋め合わせ、自己を受容するようになる。マーニーが単なるイマジナリーフレンドではなく、祖母であったこと、それも同じ目の色をした血縁関係のある実の祖母であったことが重要であるというメッセージになっている。

児童家庭福祉の視点からいえば、社会的養護や養子縁組のケースでは、どうしても真実告知が避けがたい重い課題となる。アイデンティティを構成する情報を大人が隠しながら、子どもにアイデンティティを形成しろというのは難しく、残酷である。手当をもらっている事実もそうであるが、子どもが、自分が何者なのか、どこで誰から生まれ、どうやってここに来たのか、そしてそれらをどうすれば知ることができるのかという自己の存在がかかった問いに誠実に応答することが必要である。これは「神様」や「コウノトリ」のような物語では満たされず、「育ての親」による物語だけでも満たされない。それは隠蔽的であり、かえって世界への不信につながりかねない。この世界に位置をもっていることを確認するためには、素朴だが、血縁によって説明されるべきなのかもしれない。

児童家庭福祉に限らず、人文社会科学においては、社会的親の意義を強く説き、血縁に縛られない家族や社会での生き方の意義を説く傾向にある。しかし血縁は、ないはずがないものであり、それを知らされることで縛られかねないものというより、知らされないことで縛られかねないものでもあるのだ。

7 他者を許す経験

被害者的な自己像をもちながら、いつも不機嫌な自分が嫌いで仕方なかったアンナは、自分は他者を心から許さずに、許される人間として生きていた。アンナは自分を置いて死んだ家族について「ときどき思うの、許さない、私を独りぼっちにして」と言い、マーニーに対して「私、あなたならよかった」と言う。

こうした願望は、他者が自分よりいい生活をしていると決めつけた上で、他者になり替わりたいという傲慢な願望でもある。しかし後にアンナは、自分がマーニーのように誰かにわざと虐待まがいの行為を受けたことがないことに気づく。つまりマーニーが他者であると気づいたのである。

そのアンナの成⻑と回復は、物語の終盤、マーニーを許し、養親を許すことで象徴される。他者に許される素直な人間であるだけでなく、他者を許す寛容な人間になることが、ハッピーエンドに不可欠だったのだ。

サイロでアンナは怯えるマーニーを支える立場になり、マーニーに去られたことに怒り悲んだが、それでも許すことができた。これはちょうど、養親がアンナを支える立場になり、努力しているのにアンナに懐かれず、やむをえず北海道に送り出す形で去られたが、それでもアンナを許し続けたことに重なる。互いに許すことを知っていることが、アンナと養親の信頼をつくっているのだ。

ただ、それは私たちが類似の経験をしているから許せるわけではない。究極のところは、知りえない世界に生きている他者を許すということが大事だったのだ。サイロでの出来事について、マーニーはアンナに「だってあなたはここにいなかったんですもの」という。ずっとここにいたと思っているアンナにはわからない経験である。しかしお互い別の世界を見て生きていても、それでも受け入れて許すことができるとわかることが大事だったのだ。

8 おわりに

アンナとマーニーの経験が空想か現実か、精神疾患なのか、神秘体験なのかといったことは問題ではない。アンナが「マーニーが誰だってかまわない」というように、作品においても、そのことがアンナの回復と成⻑という物語の筋には関係をもたないように表現されていると思う。

最後に、くだらないことかもしれないが、ジブリ作品に出てくる田舎は、いまどき本当にあるのだろうか。舞台になった北海道の町はあるだろうが、その町は本当にこんなところなのだろうか。行ってみるのもいいかもしれない。

アンナは何度か路上で夢うつつになって寝ているが、都会なら即、警察か児童相談所に保護されて面倒なシステムに乗せられ、専門職がいっそう介入を強めていくだろう。そうするとアンナの人生は、異なる結末になるのではないか。

2021 年 4 月 4 日

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